いろりばた 観望庵(髙島秀行)

二月に勃発したウクライナ戦争は、終る気配がない。ロシアの暴挙はネオナチ撃退と称し、歴史を八十年も前に戻したようである。今に生きるウクライナ人の犠牲と破壊された都市は悲惨で、同情を禁じ得ない。

以前にも本欄で触れたかもしれないが、今でも宗谷海峡を望む稚内に立つ碑文「みななさん さようなら」の石碑を思い出す。

昭和二十年八月十五日既に日本は降伏しているのに、以降もソ連軍の攻撃は止まず、二十日には豊原(現在のサハリン州都サハリンスク)郵便電報局も攻撃され、最後まで残った十名の交換手嬢が本土に打電し、自決した。

樺太の日本軍は、日本のポ条約受諾後、何度も大本営北海道本部に被爆状況を伝え、反撃の許可を仰いだが、本部は、既に降伏しているから、と許さなかった。ソ連軍は、引き揚げ船も、陸上も、白旗を掲げた伝言隊もお構いなしに、銃撃した。

日本から直訴され、流石に連合軍のトルーマン大統領も、ソ連に止めるよう言い、やっと止まったと言う。何と、ソ連は、あわよくば、北海道も、と考えていたようだ。

ちなみに、歴史的には、一旦、樺太(サハリン)と千島列島は交換され、樺太は日本領土ではなくなったが(明治八年)、日露戦争の終戦条件として、一銭の賠償金も取れなかった代わりに、唯一、南樺太領土と北樺太の利権を得て(明治三八年)、南樺太は以降日本領土となった。

こともあろうに、相手は、日ソ不可侵条約を締結し、内地から疎界する人もいた国である。密かに終戦の交渉を依頼した国でもある。

我が国のオメデタサ、といってしまえばそれまでだが、国際条約を平気で破棄し、占領するだけ占領し、敵は皆殺し、それが、かの国のやり方だった。

ソ連とは未だ平和条約を結んでない。南樺太は爾来実効支配され、北方四島返還も、何だかんだと騙され続けるのだろうか。それよりも、似たような国々にも隣接した我が国に、非常事態がいつ来ないとも限らない。その緊張がボケてきているのではなかろうか。

平和を願う念仏は、唱えるだけではどうにもならない。
(観望庵)

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